19??年8月8日に調製(金額不明)
倉吉駅に駅弁屋が誕生したのは明治43(1910)年のことでした。構内営業を開始したのは「上井の名家」である岸田家。屋号は、庭園の北側に立派な松の巨木があったことに由来するといいます。
当時、鳥取県には西谷金蔵(1858-1933)という大物代議士がいました。彼の娘ヨシノの夫が、岸田家の当主で北松軒の初代を務めることになる恒蔵でした。岸田家が構内営業権を認められたのは、鉄道延伸や地方開発に尽力した岳父の存在が大きかったとされています。
岸田北松軒は初代の恒蔵、2代目の虎蔵、3代目の守之助と事業継承されたようですが、昭和55(1980)年頃に廃業したそうです。徐々に駅弁が売れなくなっていた時代背景もあるでしょうが、3代目の長男が朝日新聞社の元論説主幹だった岸田純之助。次男も通産省官僚という名家の事情があって、家族に継承者がいなかったというのが実情と推測してみます。また2代目の虎蔵は日本海新聞の取締役でもあったそうで、岸田北松軒がほかの駅弁屋とは違った家業であったといえるでしょう。
倉吉では幕の内弁当のほか、鮎ずし、蟹ずしが販売されていたようです。岸田家には一族の歴史をまとめた私家本『岸田家の記録』があるそうで、そこに北松軒についての記述もあるのか気になります。一度読んでみたいものです。
倉吉駅に駅弁屋が誕生したのは明治43(1910)年のことでした。構内営業を開始したのは「上井の名家」である岸田家。屋号は、庭園の北側に立派な松の巨木があったことに由来するといいます。
当時、鳥取県には西谷金蔵(1858-1933)という大物代議士がいました。彼の娘ヨシノの夫が、岸田家の当主で北松軒の初代を務めることになる恒蔵でした。岸田家が構内営業権を認められたのは、鉄道延伸や地方開発に尽力した岳父の存在が大きかったとされています。
岸田北松軒は初代の恒蔵、2代目の虎蔵、3代目の守之助と事業継承されたようですが、昭和55(1980)年頃に廃業したそうです。徐々に駅弁が売れなくなっていた時代背景もあるでしょうが、3代目の長男が朝日新聞社の元論説主幹だった岸田純之助。次男も通産省官僚という名家の事情があって、家族に継承者がいなかったというのが実情と推測してみます。また2代目の虎蔵は日本海新聞の取締役でもあったそうで、岸田北松軒がほかの駅弁屋とは違った家業であったといえるでしょう。
倉吉では幕の内弁当のほか、鮎ずし、蟹ずしが販売されていたようです。岸田家には一族の歴史をまとめた私家本『岸田家の記録』があるそうで、そこに北松軒についての記述もあるのか気になります。一度読んでみたいものです。
(文中敬称略)
